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執筆者の写真藤ノ木陽太郎

唐津焼とは


古唐津 「絵唐津壺/水差」 市ノ瀬高麗神窯(17世紀初期)




唐津焼とは、唐津の風土で作られた焼き物である

唐津の人はサバサバしていて、細かいことは気にしない性格であり、どちらかと言うと気性が荒い

それは玄界灘の荒波、朝鮮の人々と通じるものがある

そしてそれは、唐津焼の荒々しい景色に繋がる

唐津焼は、朝鮮半島から渡ってきた焼き物である

朝鮮半島から対馬、壱岐、唐津へと繋がる

その海のルートは、古くから交易があり

朝鮮陶がもたらされ

それが自国風に変化をなしていく

唐津焼の土は広い範囲で取れる

古唐津の窯は現在の伊万里市や長崎県にまで広く所在していた

唐津港から輸出されていたので唐津焼と呼ばれる

古唐津 「斑唐津ぐい呑み」



唐津焼の最盛は桃山から江戸初期にかけてである

茶の湯の文化の台頭により戦国大名、茶人たちにより

茶陶が流行する

名品は領地よりも高値で取引されることとなる


名護屋城を拠点とする豊臣秀吉の朝鮮出兵では、朝鮮の陶工を連れ帰り、多くの唐津焼をつくらせた

古唐津 《奥高麗茶碗 銘「さざれ石」》桃山時代



これらの古唐津は、現在の唐津焼の規範であり、奥高麗などの名品を超えるものを作ることは今でも困難である

当時の陶工は質の良い献上品を作るために生死を掛けた思いで唐津焼を作った

現在とは必死さが違うのである


古唐津 「朝鮮唐津壺/中置き水差」


古唐津 「絵唐津松文大皿」桃山時代


古唐津「朝鮮唐津船徳利」 藤ノ川内窯出土(17世紀初期)



その後、それら朝鮮の陶工により有田の泉山陶石が発見される

有田焼の誕生である

それにより古唐津は衰退していく



そして現在、令和の唐津焼とは何か


桃山、江戸初期の写しをするだけではなく

唐津焼のイメージの表層を撫でるだけではなく

今の唐津焼をつくるべきだと私は思う

そのためには、唐津焼の本質をしっかりと見極め

新しい唐津焼を試行錯誤し、模索し続けることが大切である


陽太郎作 朝鮮唐津窯変茶盌



陽太郎作 斑唐津波形長盤



唐津テネシアン(ギター)形花入

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